「でっかいどう ほっかいどう」 第3回 「熊さんのこと」

北海道出身だから「熊さん」というわけではない。熊○聡という名前だから、みんなは親しみをこめて「熊さん」と呼ぶ。文字ではアクセントを表現できないのがもどかしいが、縫いぐるみの「くまさん」のアクセントではない! 大阪でいう「いとさん」「こいさん」と同じアクセントである(と、いってもこれも大阪の人間にしか判らないか…)。
その熊さんと、僕は新任2年目から5年間、いっしょの職場で働いた。熊さんは大学を卒業して、大阪の小さな衛星都市で中学校の先生をしていたのだが、当時、中高派遣といって、5年間の期限で府立高校に勤める制度があって、僕の学校にやってきたのだ。5年のうち、ラスト3年間を同じ担任団として過ごした。2つ年上の熊さんに、僕はHRづくりのイロハ、組合活動のイロハを見よう見まねで習った。
熊さんの学級通信は「階段のネコたち」。触発されて書き出した「地の塩」は、見出しの付け方、レイアウトの仕方を教えてもらったり、イラストやスクリーントーンをもらったりしながら、楽しんで100号出すことができた。熊さんは班活動が得意で、熊さんのクラスはいつも仲が良くてうらやましかった。3年の文化祭、熊さんのクラスもうちのクラスも出し物は劇。生徒の発案で書き下ろした「愛の星座物語」は、生徒のノリ、大道具のりっぱさ―教室でつくったオオクジラはあまりにも大きすぎて、体育館に移動するのにいったん解体しなければならなかった―など、ぼくの教員生活で一番の仕上がりだったにもかかわらず、最優秀賞を熊さんのクラスにもっていかれた。相手があまりにも素晴らしい出来だったので、悔しさはなかったけど。
3年を卒業させて、熊さんは中学校に帰っていった。荒れている中学現場に戻るのが嫌で、5年の間に高校の採用試験を受けて、高校に落ち着く人も多々ある中、熊さんは早く中学校に戻りたくて仕方なかったようだ。熊さんが中学校に戻っていったその夏、僕は何かを求めるように高生研の門を叩いた。
さて、いまでも組合の大きな大会に行くと、必ず熊さんの姿を見つけることができる。真冬でも少し天気がいいと、「今日は暑いねえ!」と言いながら半そで姿で階段を駆け上がっていく熊さんが、北海道人のイメージとして僕の中にある。