牧場での修業時代                牧口誠司

  僕はもともと東北人で、高校は仙台二高というところに行きました。ところがここは、伝統的な進学校で、入学後すぐに「希望大学」を書かされ、授業はすべからく受験にシフトしているような感じだったので、徐々に疑問を感じだし、学校へ行くことが苦痛になっていきました。
  「このまま続けるのは、自分に嘘をつくことだ」と思い、けれど「やめてしまうのは、現実から逃げることだ」とも感じていて、僕はどうすることもできずに立ちつくしていました。そしてとうとう、2年の始業式の日に、母に対して「僕はもう学校へは行かない」と宣言しました(親父は単身赴任でいなかったのです)。もちろん母は僕を問い詰めます。「学校には行きたくない」とは思っていても、次の道を考えていたわけではない僕は何も答えられません。一言もしゃべらず、毎日速射砲のような母の言葉を聞いていました。そして数日後、僕の愛読書だった「暮らしの手帳」の79年春号の表紙を開いた僕の目に、「僕は十勝の牛飼いだ」というキャッチコピーが飛び込んできました。京都出身のその人は、高校生の頃雑誌で見た牧場に心を奪われて、大学で農学部に入り、卒業後は教授の紹介で、知り合いもいない北海道に単身乗り込み、借金をしながら牧場を立ち上げていったそうです。
 「ここなら受け入れてくれるかもしれない」と思った僕は、急遽荷物をまとめ、母には「北海道に行ってくる」とだけ言って(ところが、生来粗忽者なものですから、雑誌のそのページを開いたままにしていたので、親はお見通しだったようです)旅立ちました。
 途中、青函連絡船の待合室で鉄道公安官に職務質問され、危うく「強制送還」されそうになりましたが、電話を受けた母が「そのまま行かせてください。今帰らせても、本人は納得しないでしょうから」といってくれたそうです。母はどれだけ心配していたか分かりませんが、僕の決心を信頼してくれた母に、僕は今でも感謝しています。
 その後いくつかのエピソードはあったものの、牧場に着き、Kさんという牧場主に会いました。なんとか頼みこんで働かせていただくことになり、牛の世話の仕方、トラクターやダンプカーの乗り方、その他さまざまな仕事を教えていただきました。日曜日は、Kさんも従業員のOさんも出てきません。つまり僕一人にまかされるのですが、それはとてつもない喜びでした。人から信頼される喜び、自分に居場所がある喜びです。振り返って僕は、高校では自分の居場所がなかったのだということに気付きました。
 夏には数十人の学生さんたちが実習に来ました。彼らとワイワイしゃべりながら仕事をするのはとても楽しく、仕事はきついものの、毎日合宿のような感じで過ぎていきました。今でも交流のある人が何人もいます。彼らと話をし、またKさんやOさんから、「お前に行動力があるのは分かった。それはすごいことだ。でもここは、お前が勝負する場所じゃないだろう? 教育に疑問を持っているというのは間違っていない。でも、おまえは自分が勝負すべき場所に戻るべきだ」と言っていただいたことで、もう一度高校に戻り、自分にとって「教育」とは何かを考えてみようという気になりました。そして一年後、僕は仙台の高校に戻り、そこからKさんが事あるごとに「京都はいいぞ、学生の街だ」と言っていたことに影響されたのでしょう、哲学を学ぶべく、京都の大学に進学し、今はあれほど悩んだ教育の場で日々奮闘中、といったところです。

 そうそう、牧場で一番の親友になった人が、京大の農学部所属で、吉田寮というところに住んでいて、僕は復学前の時間がある時に、京都まで遊びに行ったことがあります。高校生なのに無茶苦茶飲まされてえらいことになったりしましたが、大学の雰囲気を味あわせてもらったのはありがたいことでした。
 ところが、B君というその彼が、その約一年後、バイクの事故で亡くなってしまいました。これからもっと親しくなる、もっといろんなことを話す、そんな僕の未来は失われてしまいました。その悲しみを胸に、僕は受験にチャレンジし、彼の住んでいた寮でその後の5年間を過ごすことになりました。その彼、B君のお墓は、偶然ですが、今僕の住んでいる枚方にあるのです。

 お世話になった牧場は、今産地直売で結構有名になっています。現地でレストランもやっていますので、一度HPも見てみてください。北海道大会のアフター企画で行けないか、今検討中です。

「夢がいっぱい牧場」HP:http://www.full-dreams.com/index3.html